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セピア色の韓国8

-----Original Message-----
差出人 : 石田 隆章 <appleish@infoaomori.ne.jp>
宛先 : IGK FREE <igkfree@ml3.people.or.jp>
日時 : 1999年1月28日 22:55
件名 : セピア色の韓国 8 (最終回)
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おばんです。弘前の石田です。

久しぶりのセピ韓です。フリーMLも報酬規定問題で忙しそうだったので自粛してました。なんちゃって。 白状すると、実は、通夜や葬式や新年会が重なって忙しくて、さぼってました。

葛西さん wroteこの例のSさんが気になってしょうがない。なんなんだべ。二人の関係。

なんでもおまへんねん。ただのお友達です。清いのです。純なのです。私達。ほんとです。まことです。信じてください。うそではありません。

韓式旅館には風呂がないのだ。風呂好き日本人にはこれがつらい。

そうなんですか。
風呂が無い。
これは初耳です。

そうなんです。風呂がないんです。かなり立派な旅館でも風呂がないんです。勿論シャワーもない。私も最初はびっくりしました。日本人の感覚からして風呂のない旅館なんて信じられませんでした。しかも、洗面所が中庭に、つまり屋外にあるのです。雨や雪の日はどうすんだろう。田舎の旅館に行くと、トイレも屋外でした。あ、昔、津軽の農村地帯の民家もそうだったなぁ。

現在は、日本旅館同様、韓国も洋式ホテルに押されて、韓式旅館は絶滅の危機に瀕していると聞きます。かなりの田舎に行かないと、もう見れないんだろうなぁ、韓式旅館。そのうち、京都の俵屋や柊屋みたいに、純韓式超高級旅館として復活するかも。

この翌年、私は板門店を見学に行くが、その動機はこのカルチャーショックである。

私はまだ行ったことがありません。テレビで見ますけどね。行ってみたい所です。

是非、一度行ってみてください。どんな事態になろうとも韓国政府は一切責任を負いません、と書いた何ページもある同意書にサインしてからでないと、見学できません。初めて間近に見る北朝鮮軍兵士は迫力があります。拳銃や自動小銃は勿論、なんに使うのかマサカリまで持って立ってました。金太郎じゃあるまいし。

北側でも見学者があるらしく、一団の見学者に案内役らしい将校が我々の方を指差して、何か説明してました。国際政治、パワーゲームに対する認識があらたまります。

さてさて、まりつさんの北京レポも始まったし、セピ韓も今日で終了です。と言っても、今日は帰るだけなので、特に書くこともないんですが・・・

昭和45年11月、7日目にして韓国最後の朝となりました。

まだ薄暗いうちに目がさめた。何やら異様な音がする。ぐおおおーーん、というような、地鳴りのような ・・・

一体、なんの音? と起きて窓の外を見てみると、これが、道一杯に走り回る自動車とバイクと自転車と荷車と馬車と人のかきたてる騒音でした。

車とバイクのエンジン音に警笛(ほとんど鳴らしっぱなし)、荷物を一杯積んだ自転車や荷車や馬車や通行人達の怒号、これらが混然一体となって、ぐおおおーーん。大都市ソウルのエンジン始動音だったのでした。なんとも凄まじいバイタリティじゃわい、.と一人納得しながら朝食に向かった。

チェックアウト後、徒歩でソウル駅に向かう。私はどこに行っても、なるべく徒歩でその街を見ることにしている。地元と触れ合う一番いい方法は徒歩だと思っている。でも、暗くなってからのニューヨークは、徒歩はやめたほうがいい。

ソウル駅はホテルから1キロほど。建物は壮麗だが、中はえらく薄暗かった記憶がある。

釜山行き特急、確かセマウル号と言ったけか。セマとは新しい、ウルとは村や町や国という意味だから日本語なら「新郷号」といったところか。そういえば、この当時、韓国はセマウル運動と言う、なにか郷土改革の運動をやってたっけなぁ。そこから命名したんだろうか。

乗ってみると、これが全車両2等車。この当時の韓国では3等車が日本で言う普通車、2等車がグリーン車にあたる。1等車てのはどんなんだったんだろう。

数日前に乗ったローカル列車と違い、通路を挟んで片側2人ずつでゆったりしてる。リクライニングはできるし、ガラガラに空いてて快適だった。途中、停車するのも大邱、慶州の2ヵ所だけなので4、5時間で釜山に着いてしまった。快適だったが、これといった触れ合いもなかった。釜山駅からバスで釜山空港へ。ロビーに入ってインフォメーションカウンターを見ると、いた、いた、いました、Sさんが。こちらを認めて、彼女もにっこり。

福岡行きの飛行機が出るまで、インフォメーションのお茶なんかごちそうになりながら、だべって時間を過ごし、なごりを惜しみつつ福岡へ飛んで、そこからはまたスカイメイトで羽田へ飛び、夕方、世田谷の下宿へと無事帰着しました。

使ったお金は3万円かそこらであったけれど、実に有意義な人生に資するものの多かった旅行であったと自画自賛してます。

約30年前の、往時茫々のなかから、思い出し思いだししながらの書き込みなので、細かい地名等は不正確なところがあったかも。

しょうもない思い出話で、皆様のパーコンのメモリーの無駄使いをさせました。 平にご容赦。

では、では。

さて、誰でしょう?
《さて、誰でしょう?この時、彼女は21歳。今のギャル達からみると良く言えば大人っぽい。悪く言えば地味ですね。》

え? Sさんはその後どうしたかって?

えーっとですね、彼女とは、年に1回くらい、彼女の大学があったソウルや、実家のあった釜山でデートをしてました。(たなばた様だな)特にソウルでは彼女の学生仲間や、彼女の弟やその医学生仲間と茶房(たーばん=喫茶店)に集まって何時間も過ごしたのが大変楽しい思い出になっています。でも、当時はやっていた生卵入りのコーヒーは飲めなかった。

普段は手紙のやり取りをしてました。卒業の時、私は京都の会社で貿易の仕事をすることになり、彼女はキャセイ航空のスチュワーデスに採用が決まりました。ところが、ご両親の反対で、その件はお流れになりました。

反対の理由は、キャセイ航空の社員は、原則として、本社がある香港に住まなければならないことだったとか。娘を香港あたりに一人住まいさせる訳にはいかん、ということだったようです。

せっかく世界を飛び回れると思ったのに・・・しょうがないから大学院でもう少し学問を続けようと思う・・・と、ほとんど泣かんばかりの手紙をよこしていました。

昭和50年頃、彼女達は一家を挙げてアメリカに移住しました。そして彼女はアメリカ人男性と結婚し、シアトルの郊外に住みました。

    今度アメリカに来るときは、奥さん共々きっとシアトルに寄ってね。
    両親も弟もまた会いたいって言ってるし。
    それと、あなたの長男坊の名前、なかなか良い名前ね。
    うちはまだ子供できないわ。

    うん、ありがとう。この次ぎはきっとシアトルをコースに入れるよ。

てな、やりとりをしていました。彼女の夫も貿易の仕事らしく、東京にもちょくちょく来るので、彼女も夫にくっついて、2度ほど東京に来たようです。でも、私は弘前なので、彼女と会うことはありませんでした。うん、あいつも幸せにやっとるわい。

と、思っていたのですが、14、5年くらい前、夫とは別れることになった、という意味の、しかし、意味のよく取れないかなり取り乱した様子の手紙がきました。

    おい、こないだの手紙、意味がよくわからんぞ。
    もちょっと詳しく説明してみい。

と返事を書いてやったのですが、その後、ぱったりと音信不通。

一体、何があったんだろう。今、どこで何をしてんだろう。永住権はあるから、アメリカのどこかにいるとは思うんだが。あのインターネット社会のアメリカだから、きっと彼女もどこかでパコパコやってると思うんだけど。ウェブサイトと違って、探しようがないからなぁ・・・

またまたメモリーの無駄使いをさせてしまいました。では、では。