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セピア色の韓国3

-----Original Message-----
差出人 : 石田 隆章 <appleish@infoaomori.ne.jp>
宛先 : IGK FREE <igkfree@ml3.people.or.jp>
日時 : 1999年1月4日 19:26
件名 : セピア色の韓国 3
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おばんです。弘前の石田です。

昨夜は今年1発目の新年会があって、少々お屠蘇をすごしてしまい、今日は午前中死んでました。前田さん、代わってけれ。

仕事始めは午後から。 といっても、自宅を兼ねた事務所だし、事務員が出勤して来るわけでもないし、さあ、今日から仕事だ、という感じは全然無いけど。

さて、新羅千年の都、慶州に着いた。

新羅は紀元前後、三韓の一つとして成立し、7世紀に入ると第29代国王の金春秋(太宗武烈王)が金庚信(きん・ゆしん、「ゆ」は「庚」ではなく、まだれに「ぐみの木」の「み」のくさかんむりの下の方を書くのだが、正確な字がワープロソフトに入っていないのだ) という名将を得てコンビを組み、唐と同盟して(羅唐同盟という)白村江で百済と日本の連合軍を破って、百済を滅ぼし、ついで武烈王の後を継いだ文武王がやはり金ゆ信とコンビを組み、高句麗をも滅ぼし、統一新羅を打ち建てた。

滅ぼされた百済は、遺臣鬼室福信を中心に、日本に滞在していた王子余豊章(章の字も王へんがつくのだが、ワープロから出てこない)を迎えて、日本の援助を得て、百済復興のためしばらくゲリラ戦をやっていたのだが、肝心の福信と豊章が不仲となり、自滅してしまう。

以来、新羅は10世紀に王建が高麗王朝を建てるまで半島に君臨する。神功皇后の時代からあまり仲の良い方でなかったのに、そのようないきさつがあったから、日と新羅はあまり仲が良くなかったようだ。遣唐使が、半島経由でなく、危険な東シナ海横断で行かざるを得なかったのも、ここに原因がある。

でも、奈良時代だか平安時代だかの漢詩集(海風藻だったかな?)に、新羅からの国使をもてなした際に開いた詩会での作品が載っているから、一応のお付き合いはしていたようだ。

新羅の首都であった当時は人口30万の大都市であったようだが、この当時(昭和45年)の慶州の人口はわずか7万という田舎町だった。慶州駅前のバスターミナル、というよりは、バス停に着いたのは午前9時頃。駅は木造の質素なものであった。その側に、これまた質素な観光案内所がある。そこで駅の近くの旅館を紹介してもらい、荷物だけ放り込んで、さっそく徒歩で見物にでかけた。

まずは、博物館へ行って見る。現在の立派な慶州博物館からは想像も出来ない木造の質素なものであった。展示してある出土物は、上野の博物館で見た日本の古墳の出土物とそっくりなものばかり。やはりこれは他人ではない。

この当時、博物館は街はずれにあった。博物館を出てちょっと西に行くともう田園地帯。向こうに騎馬武者の大きな銅像が見える。近づいてみると立派な墓だ。側のこの大きな銅像の台座の銘板を読んで見るとこれがあの金ゆ信将軍だ。そうか、ここは金ゆ信の墓だったのか。

金ゆ信は花郎出身とある。花郎とはなんぞや?私も良く分からないのだが、中国の古典で「花子」といえば、乞食のこと。(日本中のハナコさん、お許しを)昔、アメリカでヒッピーのことをフラワーチャイルドと言った・・・蛇足。金ゆ信は若いとき不遇であり、貴族でもなんでもなかったけど、ひょんなことから、後に武烈王となる金春秋と親交を結ぶようになりその後の大活躍は皆様ご存知の通り。ここはやはり、花郎とは貧民層を指すと解釈するのが妥当か。それにしても、金ゆ信は興味ある人物だ。誰か、彼の一代記を書いた本を知りませんかね?

その銅像からテクテクと南下すると、金ゆ信の主君、武烈王の陵がある。要するにただの大きな土まんじゅうなのだが、これがそうかと思って見ると感慨深い。この当時は、遺跡は田や畑の中に何気なく存在していた。

白村江。
《余豊章と鬼室福信を助けるべく日本百済連合軍が新羅唐の連合軍と激戦を交わした白村江。現代の韓国では白馬江と呼ばれる。》

またテクテクと歩いて慶州の市街へ戻ったら、もうお昼をかなり過ぎていた。疲れたし、腹も減ったので、手近な食堂へ入る。子供の頃、よく親に連れられてこんな感じの作りの質素な食堂に行ったっけなぁ。ああ、なつかしい。お品書きを見ると、これが全部ハングル。当たり前か。頭の中でハングルの部品をアルファベットに変換しながら読んで見ると、カルビやビビムバと並んでオムライスやウドンなんて書いてある。必要に迫られるから、この程度はすぐ読めるようになる。

で、オムライスを食った。旨かった。安かった。50円くらい。この当時、韓国の最高額紙幣は500ウォン札。5000円も両替すると、100万円の束を持ったような気分になる。この当時は、日本円から直接ウォンに替えることは、公式にはご法度だった。でも、釜山やソウルの大都市では、日本円を欲しがる人が多かった。ヤミ市場があったんだべか。

さて、遅い昼食も終わって腹ごしらえもできた。午後の部に出発するか。チョムソンデ、つまり、せん星台へ行ってみた。「せん」も漢字で書きたいんだが、これもワープロに入ってない。つきへんに「たわごと」という漢字のつくりの方を書くのだが。 例の巨大なとっくりの形をした古代の天文観測施設である。今はどうなってるのか分からないが、当時は民家の裏庭という感じのところに、忽然と現れたのでびっくりした記憶がある。良く見ると、ほんの少々だが、傾いている。朝鮮戦争のときにすぐ側を戦車が走り回ったからだ、と、そこいらで野菜か何か干していたおばさんが教えてくれた。よく壊されなかったものだ。

昭和45年当時は、若者以外は皆日本語ができたので、どこ行っても言葉に不自由はしなかった。今、日本語のできる人はほんとの老齢者だけになってしまった。

その後、どこどこの遺跡を見て回ったか正確に憶えてない。とにかく、適当に歩き回ると、なにかの遺跡に行き当たる。大好きだなぁ、こうゆう街。

そうこうするうちに秋の日も暮れてきたので、旅館に帰る。一泊2食付で500円くらいだが、別に木賃宿という訳ではない。食事も量、質ともに悪くない。さあ、明日は午前中仏国寺へ行って、午後からは列車に乗って日本海側の景勝の地、江陵へ行くぞ。

大分長くなってしまった。続きはこの次ぎにしよう。

では、では。